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2019年05月20日
ブログ

行徳にある悲しい恋のお話し「おかね塚」

こんにちは。

突然ですが、みなさま、恋、してますか?

「現役です。 絶好調で恋してます。周りが見えませ~ん 」という方もいれば、

「 いやいや、もう歳なんで。そんな恋なんて 。でもまあ、昔はそうとう鳴らしましたよ

WWW」という方もいらっしゃるでしょう。

私はというと、

先日、テレビの星占いで「 恋が成就する可能性大 」とあったので、

横にいたご主人様(旦那さん)に、

「 ね、恋が成就だって、どうしよう♡ 」

と言ったら、鼻で笑われてしまいました。

ちなみにご主人様(旦那さん)の恋は、我が家の猫さんと私との三角関係だそうです。

猫さん、オスなんですけど。。

ソッチ系だったとは … 

おかね塚のこと

ちょうど、光林寺さんの真裏あたりに「 おかね塚 」があります。

ぱっと見た感じでは、よそ様の墓地 の一角の前、に石碑が立っているように思えます。

近寄ってみると、

横にある案内板に『 おかね塚 』と書いてあります。

では、【 塚 】とは何でしょうか。

【 ヅカ 】と聞いて一番に思い出すのは『 宝塚歌劇団 』 って方も多いとは思いますが、

『 おかね塚 』の【 ヅカ 】とは、 

「 つかは築(つ)くから出た言葉で、高く築いた場所を指しており、人工的に土を盛っ

た場所をいう。畏怖され、神聖視されていることが多い」(ブリタニカ国際大百科事典)

他に「 土を小高く盛って築いた墓 」(デジタル大辞泉)

『おかね塚 』の場合、お墓になるのでしょうか?

 

さて、それでは行徳の歴史に残る『 おかね塚 』について調べてみましょう。

(以下、多少脚色もしてます)

その前に時代背景を少し。。

おかねさんのいた時代

そもそも、 おかねさんが生きていた時代はどういう時代だったか。

 

戦国時代、下総国(千葉県)行徳(現在の行徳地区と浦安あたり)では、

関八州240万石を治める小田原の北条さんに、年貢として塩を納めていました。

ある時、北条さんが真田さんとの間でおこした領土争いにより、北条さんの家臣が勝手に

真田さんの名胡桃城を攻撃して占領してしまいました。

日本国の平定を目指していた豊臣秀吉さん、自分が天下をとったことで

真田さんとも北条さんとも上手くやっていきたかった(従わせたい)のですが、

大名家の私戦を禁じた【惣無事令 】に背いてしまった北条さんをそのままにしておくわ

けにはいかず、  ≪ 小田原征伐 ≫ を。

北条方軍勢 82,000 

      VS 

豊臣連合軍軍勢 21万強

 

まだ大砲も無い時代、この数の差で勝てる方法があるのならお聞きしたいところです。

 

北条さんが敗れたあと、秀吉さんから関東への移転を命ぜられたのが徳川家康さん。

成りあがりで天下人になった秀吉さんと違って、自分の主君だった織田信長さんとは兄弟

付き合いをしていた上、生まれた時から家臣もいて、少し前の織田家の跡目争いの戦で

自分を追いつめた家康さんは目の上のこぶ。

お互い、いつなんどき相手が裏切るかと疑心暗鬼の中、

日本国の平定を目指す中で、(今はまだ秀吉さんと戦う時では無い)と分かっていた

家康さんは、文句も言わず慣れ親しんだ三河の国から、室町時代の武将・太田道灌さんが

築いた江戸城にお引越し。

見知らぬ土地で、一から国造りを始めることになりました。

そんな中、食料の中でも大切な『 塩 』を安定供給するために、下総国(千葉県)行徳地

区(行徳及び浦安)に大規模な塩田・製塩の開発を肝いりで行うことに。

すると、

「 いいね~。徳川さんのおかげで行徳もうるおっちゃうね 」

と、行徳の人たちのみならず、製塩の燃料を運んでくる上総の人たちも大喜び。

すると、

「 儲かったから、今夜はいっちょパーッと遊びに行くか! 」

みんな懐が温かいから気も大きくなる。

で、当時の男の人のお金がかかる憧れの遊びといえば、

吉原。

余程の位の高い花魁は無理かもしれないですが、

(位の高い遊女はお金では動かない、と歌舞伎で言ってます)

普通の遊女だとお金さえ持っていればちやほやしてくれる(たぶん)。

おかねの恋

名無しの権平さんは上総から来る輸送船の人夫の一人。

他の人たちと一緒に船の停泊中に江戸へ吉原遊びに出かける。

そこで知り合ったのが遊女の「 かね 」さん。

お互いのタイプがドンピシャだったのか、

「 好きよ♡大好き♡♡ 」

「 俺も~♡ 」

そんなこんなで何度も会ううち、

「 お前の年季が明けたら一緒になろうぜ 」

「 やだ!それってプロポーズ?ウレシイ♡♡ 」

吉原では、【 遊女の年季は10年。27歳まで 】という原則がありました。

年季の明けたおかねさん、

「 おかねちゃん。しあわせにね(涙) 」

「 ありがとう。みんなも体に気を付けてね(涙)」

朋輩の涙に見送られながら、

「俺の国は上総だけど、ほとんど押切にいるから」

との名無しの権平の言葉を信じ、おかねさんは一路行徳は押切へ。



「 あの人、喜んでくれるかしら うふふ 」

名無しの権平の「 愛 」を信じ、ひたすら待つおかねさん。

しかし、待てど暮らせど名無しの権平は現れません。

そのうちお金も使い果たし、悲しみのためにこの地(押切)で亡くなってしまった。

その話が誰からともなく吉原に伝わると、

「 おかねちゃん、かわいそうに… 」

吉原の遊女たち百余人は、愛する人を待ち続けて亡くなった「かね」の純情にうたれ、

僅かばかりのお金を出しあい、供養のための碑を建てた。

それが↓ 

阿弥陀如来の石像。

左側に【 寛文5年10月15日建立 】とあります。

押切村の人たちも、かねさんのために花や線香を供えて供養したとか。

また、その詳細が隣の由来碑に書かれています。↓

この由来碑は昭和50年代に建てられたようです。

 

ただ、国立国会図書館の「 レファレンス共同データベース  」には、

建立したのは「 遊女達ではないんじゃない? 」との説もあります。

 

… 誰が建立したかより、

おかねさんかわいそう、より、

 

名無しの権平、どこいった~!

 

というのが私の感想です。

この記事を書いた人
五十嵐 裕子 イガラシ ユウコ
五十嵐 裕子
勤務先である行徳の素晴らしいところをもっと知っていただきたくて、あちこちお出かけしながらブログを書いています。不動産売買の仲介を専門とする当社で、「一期一会の出会いを大切に」をモットーに、お役にたてる宅建士でありたいです。
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