行徳のなつかしき風景 「浅子神輿店」とお神輿の歴史
こんにちは。
本日は、行徳の中の昔懐かしい風景を味わえるスポットをお届けいたします。
その名も「 浅子神輿店跡 」。
行徳の有名なスポットです。
場所は、行徳街道をしばらく行ったところです。
車の通りが多いので、お気を付けください。
浅子神輿店さんは、
室町時代末期、応仁年間に初代 浅子周慶さんが『 浅子神輿 』を創業されたそうです。
応仁年間というと、≪ 応仁の乱 ≫ がぱっと浮かびますね。
細川勝元 VS 山名宗全。
≪ 応仁の乱 ≫ といえば応仁元年(1467年)に発生し、以来11年間に渡っておこった
内乱です。
でも、主に関西、中国、九州の一部での戦いですので、千葉は蚊帳の外かと。。
では、そんな時代に浅子神輿店が作っていた「 神輿 」とは何なのか、
その歴史をたどりましょう。
お神輿の歴史
諸説あるようですが、
文献で初めて「 神輿 」という文字が出てきたのが奈良時代だそうで、
第44代 元正天皇(680年ー748年)の時代、養老4年(720年)に九州の隼人さんが起こし
た内乱(「隼人の乱 」)で、朝廷が歌人としても有名な大伴旅人を征隼人持節大将軍に
任命し、宇佐八幡宮に勅使を派遣。国家鎮護と隼人討伐を祈願したそうです。
そのとき八幡神がこの願いに応じ、
「われ征きて降し伏すべし。みずから神軍を率いて隼人討伐に赴く」
(私が自ら神軍を率いて征伐に行き、隼人を倒してみせよう!)←(たぶんそんな意味)
と託宣を下した。(神様が直接言う訳ないから、巫女さんか誰かが言わされた?)
それで、八幡神の神霊が乗る神輿を作らせた、のが最初らしいです。
で、お神輿の形ですが、
聖武天皇(701-756)が奈良に東大寺を建てて大仏を建立する時、宇佐八幡神に手伝いを
させるために(?)屋根に金色の鳳凰が光り輝く、普段天皇が乗る乗り物(鳳輦)に乗せ
て奈良の都へと渡御した時のものが今に伝わる神輿の原型である、と言われています。
また、お神輿が一般に広まったのは平安時代。
日吉大社や京都の現・八坂神社・今宮神社・北野天満宮や、大阪の大阪天満宮などでも
神輿が作られるようになった、そうです。
(以上、ウィキペディアより抜粋)
お神輿は、普段神社に祭られている神様が、たまに世間の災厄や穢れを清めるために世間
にお出ましになる、もしくは、どこかに移動するために乗る乗り物だそうです。
(お祭りによって違いはあるそうですが)
そういえば、たまにお神輿を乱暴に上下させたりゆすったりする
のは、神様の霊威を高めるためだと昨夜のニュースで言ってました。
他にもネットでは、
「神様を寝かさないため」とか、
「魂振りといって、神様はよく混ぜると活性化するらしい 」
とか、
「神様を揺らして興奮させて楽しませ、より人とのコミュニ
ケーションを図るため」
等の意見がありました。
決して神様へのいやがらせではない、んですね。
私がお神輿と聞いて思い出すのが、平清盛の「祇園乱闘事件 」ですね。
当時の延暦寺の僧達が、自分たちの訴えを強引に通すため(強訴)神輿を担いで
「 神のご宣託じゃ~ 。逆らうと神罰が下るぞ~」とくりだしてきたとき、
平清盛が矢で神輿の鏡を射た。
神輿に矢を射ると血を吐いて即死する、と思われていた時代。
けど、何も神罰が起きず、みんながびっくりした。
そしてその後は強訴が減った。
という吉川英治さんの「新・平家物語」。
(神様もやんちゃな僧に困ってたんだろうな)と思いながら読んでました。
「浅子神輿店」は国の登録有形文化財なのです。
こちらの「 浅子神輿店 」さんは国の登録有形文化財です。
登録の理由として、
「昭和前期に建てられた建物は、木太く豪快な造り。現在は廃業していますが、室町時代
からと言われる神輿造りの歴史と合わせて評価されました」(市川市HPより)
とありました。
残念ながら撮影した日は休館日でした。
中の様子をうかがうことができないのが残念です。日を改めて来ます。
店舗前の道も舗装された現代の道ですが、
お散歩がてらにいかがですか?
浅子神輿店の情報
住 所 千葉県市川市本行徳37-2
国登録有形文化財 平成22年9月10日登録
開館時間 10:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日 月曜日・祝日
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