行徳の「自性院」は勝海舟ゆかりのお寺~勝海舟という人~
当社の前の交差点で、信号待ちをしていた男性2名。
(かたや80代後半と思われる男性。こなた90代だと思われる男性)
推定80代自転車男性「(歩いていた男性の横に止まり)自転車より早いですね」
推定90代歩行者男性「若いからね」
推定80代自転車男性「ははは」
推定90代歩行者男性「命は惜しいからね」
し、シュールな会話。 by:NMさん
NMさんのツボに入ったみたいです。
さて、行徳には年代物、ではなく、
年季の入った、ではなく、
歴史的建造物が多いのですが、
本日はあの、勝新太郎さんではなく、
勝地涼さん(前田敦子さんの旦那さんね)ではなく、
幕末の有名人・勝海舟さんに縁のあるお寺
をご紹介いたします。
神明山自性院へのみち
とにかく行徳街道をまっすぐに妙典方向に行ってください。
加藤家のフランス式煉瓦塀も越えて、しばらく行くと
入口があります。
この先が自性院さんなのですが、
自性院さんの手前、行徳街道沿いに↑ 「 神明(豊受)神社 」さんがあるので、
目印にしてください。
(神明(豊受)神社については、また改めて調べます)
神明山自性院 由来・いわれ
真言宗豊山派、本尊は大日如来。
天正16年(1588年)、法仙法師により開基。
行徳の総鎮守であった神明(豊受)神社の別当寺であった。
自性院さんが創立された天正16年といえば、
室町幕府最後の将軍・足利義昭さんが征夷大将軍職を朝廷に返上した年です。
えっ!と思う方、いらっしゃいませんか?
かく言う私も、えっ!と思いました。
だって、義昭さんが織田信長さんに京都から追われ、備後国へ越した時点で室町幕府は滅
び、義昭さんも征夷大将軍ではなくなったと思っておりましたから。
なのに、実は備後国で過ごしている間も、義昭さんが征夷大将軍のままだった、
という事実!
信長さんが本能寺の変によって倒れた後、豊臣秀吉さんが政権を確立させたときに、
やっと自らこれを辞したそうです。
そのお返しでしょうか?秀吉さんから山城国槙島1万石をもらって大名になり、前将軍と
して遇され余生を送った、というから、裏で取引あったんですよね?ね?
でも征夷代将軍って、『 武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者 』の職のはずな
のに、信長さんが義昭さんからその職を取り上げなかったのは何故でしょうか?
以前読んだ本では、
「征夷代将軍の職は、源氏の流れを汲むものしかなれず、織田信長は平氏の出であるから
これを望めない。また、豊臣秀吉は源平どちらの流れでもないから、近衛前久の養子とな
り関白となった」(趣意)
とあったので、それを信じていたのですが、
今調べると「征夷代将軍の職は、源氏の流れを汲むものしかなれず」
なんてことはみじんも無いとか。
この本に騙されたか!→「徳川家康」by山岡荘八
さて、自性院さんが建立された年には、他にも豊臣政権による刀狩令(武士以外の僧侶や
農民などから、武器の所有を放棄させること)の布告なんてのもありました。
自性院にゆかりのある勝海舟さんとはどんな人?
勝海舟さんのことを知らない人は、ほぼいないのではないでしょうか。
でも、念のためここでおさらいをしておきましょう。
男谷家の三男だった小吉さんが勝家に婿養子に出され、その子供として生まれた海舟さ
ん。幼名は麟太郎(りんたろう)さんです。
勝家は小普請組という無役で小身の旗本でありましたが、古参の幕臣でもあったのです。
海舟さんは10代の頃から剣術・禅を学び、直心影流剣術の免許皆伝となるほどの腕前。
また、16歳で家督を継ぐと、蘭学を学んでオランダ語もぺらぺらに。
まさに文武両道です。
そんな海舟さんが一躍脚光を浴びる最初の一歩となったのが、
1853年のペリー来航でした。
「黒船がやってきた~!!!」
「開国しろと言ってる~!!!」
大慌てした幕府は、自らの責任で開国することに躊躇。
「誰か意見はないか、幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集するぞ」
と、意見書の募集をかけた。
それを知った海舟さん、これに応募。
「おや、この勝って男の意見、なかなか見事じゃぞ」
「ふむふむ」
で、みごと金賞ならぬ「異国応接掛附蘭書翻訳御用」という役に就くことができた。
その後は長崎海軍伝習所で教頭になり、得意のオランダ語を生かして活躍。
船酔いする体質だったため、「海軍には向いてない」との意見もあったが、
「まあ、その辺は気にしない」という感じ。
1854年、幕府は開国を決めた。
日米和親条約を結ぶと、今度は日本との貿易を望んできたアメリカの総領事ハリスさん。
大老・井伊直弼は、天皇へ許可を得ることもせず勝手に
「OKOK」
どうして勝手に調印しちゃったのか、
「だって、圧がすごかったんだもん」
って感じでしょうか?
その後1860年、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカ
へ派遣する。その際、「護衛」の名目で海舟さんも咸臨丸に乗船して渡米。
この咸臨丸には一緒にジョン万次郎さんや福沢諭吉さんも乗船していたそうです。
お勉強家の海舟さん、アメリカ滞在中は政治・経済・文化など何もかも日本と違う文明に
衝撃を受けたことでしょう。
しかし、海舟さんがアメリカから帰国してみると、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼さ
んのあとを継いだ安藤さん達に海軍強化の提案を聞き入れてもらえず、
それどころか海軍から離され、幕府が作った洋学を学ぶための蕃書調所というところ
で頭取助(頭取の助手?)を言い渡されるという。
海軍から離れたことがよっぽど面白くなかったのか、勤務態度は不真面目でさぼってばか
りだったそうです。
あっら~、海舟さんのお話しだけで2000文字越えちゃった!!
すみませ~ん!この続きはまた明日!
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